主な活動場所
大阪府周辺

 昔の自治会報に面白い話が載っていました

2017-06-15
 ●お玉祭りの話
 戦前の毎年一月六日、高浜神社の境内で若い人達が裸一貫でお玉を奪い合う行事があった。
 お玉とは、…当年の開の方(あきのかた)に向える椋の枝を以って作った直径二寸(約6糎)長さ四寸(約12糎)程の円柱状の霊木…で、近況近在の若者達は、そのお玉を得れば、…無事息災にして福が舞い込む…という伝説を信じ群をなして集まった。
  《 お玉の写真 》
(色の違いは木の違いで黒っぽいのが春日神社のもので椋の木、茶色が高浜神社のもので椋の木がなかったということです。)


 この行事のおこりは、約600年以前、建武の中興のあと正平年間(1346年 ぬ1369年)で、神境町春日神社の奇祭として、天王寺のドヤドヤ、西大寺の裸祭りとともに有名であった。
 春日神社の神殿から投げられたお玉を奪い合い境内の中でもみあい、やがて鳥居を出て、どこの家でもよい、お玉を持って飛び込めば、その者の勝利となりその年の福を得るというのである。神境町の年寄りに聞けば、なかなか人家に入れなくて、町内中を走りまわったという話であった。
 ながく続いたその奇祭も、明治三十七八年の日露戦争で中止になり、その後、四十一年に春日神社も高浜神社に合祀されて、そのままたちぎえになっていた。
 昭和七年(1932年)上海事変の起こった年に田口市松氏の発案で、またその奇祭を再現しょうと高浜神社に申し込んで、その年から再び高浜神社境内で行われることになった。この場合は、お玉を持った者が高浜神社の鳥居を出れば、その者は勝利者となったようである。私が見たのはその頃であったように思う。春日神社の場合は旧暦の一月六日であったが、高浜神社に移ってからは新暦の一月六日と改められたとか。

  《 高浜神社で再現されたお玉祭り 》

 戦後二十余年、高浜神社の境内の様子も変わり、若い人達の行事も、野球等と変わってきたが、このような行事も、何か古の絵図を見ているような澄んだ感じのするものである。
 神崎川に鵜飼いがあったとか、川岸の松に鶴が舞っていたとか、スモッグや交通戦争に悩まされる昨今、神境町界隈も、昔を今になすよしもがな、であろう。