音楽の時間 8 〈コンクールですね〉
2023-07-16
夏が来たら吹奏楽コンクールですね。
私達ははなぜコンクールに出場しているのでしょうか…。
今回は、紙谷先生がJBA在籍中に書かれた「私達日本人がナンセンスと言われる演奏からどうしても抜け出ない訳」より「吹奏楽での問題」から抜粋します。
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私は小学生校4年生の時からトランペットやホルンを学んで吹奏楽に親しみ、やがて指揮を学んで編曲や指揮もするようになったが、当時から行われ始めたコンクールについては、スポーツのように勝ち負けを争う姿にどうしても馴染めず、関心が無かった。しかし或る先輩から、コンクールが余りにも非音楽的だから審査員に加わって一石投じて欲しいと言われ、それに応じたのが現在の活動に繋がることとなった。そして実際のコンクールを見た時の驚きは忘れられない。優勝候補の高校バンドがバッハの曲を始めから終わり迄、バッハを打ちのめせ!と言わんばかりに、もの凄い強烈な音で迫力に満ちた演奏をしていた。えっ?これがバッハ? 作曲者がどんな人であろうと、その曲が何を表現するものであろうと、それには一切無頓着。そして金賞に輝いた。こういう演奏は「音楽ではない」と低い点をつけた私は以後各地の「有力な」指導者たちに敬遠された。これは今日に至っても根本的に変わっていない。
言う迄もなく吹奏楽界はコンクールの審査員によってリードされて来た。審査員が何を良しとし、何を駄目として減点するか、好評に何を書いたか、その結果を見て指揮者は自分の教え方の方向を得る。その審査員には現代の最先端の技法を身につけた音楽家達が選ばれるのが普通だが当然彼らの評価は楽器の奏法中心。楽曲の音楽的表現については評価の絶対的基準がないから間奏程度に止める。さて、他のコンクールならいざ知らず、吹奏楽が小学校からの一端になっている今日、吹奏楽コンクールがこのような技巧の点数評価だけでリードされていいのだろうか。音楽は情操教育の一つと言われるが、こういう方向付けをされた技術教育が「音楽表現」による情操教育になる筈がない。
日本の音楽教育が「楽譜通り正確に美しく」を目的にしているから、吹奏楽の指導でも同じであるが、更に吹奏楽にはそういう方向に強く偏らせる幾つかの事情がある。
~略~
ともかく、音楽を演奏する目的が譜面通りに音を出す事であればなんの問題も無い事だが、作曲者がいろいろな表現手法を駆使して何事かを人の心にもたらすことを考えているとしたら、吹奏楽といえどもそういう目的に沿った演奏をしなければならない。前述のように西欧ではそういう種々の奏法を教えるのが音楽教育だから、たとえサウンドが本来の楽器の音と異なっても、吹奏楽によって作曲者の意図が表現されるべく演奏される。そこに音量や音色の変化が十分駆使できる能力が普段から育てられている。この能力が現在の日本のコンクール中心の教育体制から育つ筈はない。通常のコンクールはは何と言っても演技技術のレベルを競うものにならざるを得ないし、それ以外の教育が吹奏楽界には見当たらないからである。
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中略しちゃったとこですが。
吹奏楽だからの事情。まずは管楽器は奏法が弦や打楽器に比べて難しいこと。音を出すのが難しいので、縦を合わせることやピッチを合わせるだけで練習が終わってしまう。
また、音楽科の先生は専門が歌やピアノのため指導を辞退する方が多いとか。すると、全く音楽とは関係のない先生が担当し、それこそ合わせるだけで手一杯になってしまっている。
吹奏楽はもともと野外での演奏をしていたが、今では室内ホールで演奏するようになった。にもかかわらず、音楽的理解を変えずに演奏している。
そして逆に、音楽的にいい演奏に対してそうではないと言う指導者や審査員がまだいると言うこと。とてもバッハとは言えないけれど、素晴らしい音だし、楽しんで演奏しているからいっか、みたいな…。
郵政は音楽的な理解を持って演奏をする楽団です。
音楽的な演奏のためには演奏技術も必要です。
音楽へのひたむきさを忘れず練習していきましょう。
私達ははなぜコンクールに出場しているのでしょうか…。
今回は、紙谷先生がJBA在籍中に書かれた「私達日本人がナンセンスと言われる演奏からどうしても抜け出ない訳」より「吹奏楽での問題」から抜粋します。
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私は小学生校4年生の時からトランペットやホルンを学んで吹奏楽に親しみ、やがて指揮を学んで編曲や指揮もするようになったが、当時から行われ始めたコンクールについては、スポーツのように勝ち負けを争う姿にどうしても馴染めず、関心が無かった。しかし或る先輩から、コンクールが余りにも非音楽的だから審査員に加わって一石投じて欲しいと言われ、それに応じたのが現在の活動に繋がることとなった。そして実際のコンクールを見た時の驚きは忘れられない。優勝候補の高校バンドがバッハの曲を始めから終わり迄、バッハを打ちのめせ!と言わんばかりに、もの凄い強烈な音で迫力に満ちた演奏をしていた。えっ?これがバッハ? 作曲者がどんな人であろうと、その曲が何を表現するものであろうと、それには一切無頓着。そして金賞に輝いた。こういう演奏は「音楽ではない」と低い点をつけた私は以後各地の「有力な」指導者たちに敬遠された。これは今日に至っても根本的に変わっていない。
言う迄もなく吹奏楽界はコンクールの審査員によってリードされて来た。審査員が何を良しとし、何を駄目として減点するか、好評に何を書いたか、その結果を見て指揮者は自分の教え方の方向を得る。その審査員には現代の最先端の技法を身につけた音楽家達が選ばれるのが普通だが当然彼らの評価は楽器の奏法中心。楽曲の音楽的表現については評価の絶対的基準がないから間奏程度に止める。さて、他のコンクールならいざ知らず、吹奏楽が小学校からの一端になっている今日、吹奏楽コンクールがこのような技巧の点数評価だけでリードされていいのだろうか。音楽は情操教育の一つと言われるが、こういう方向付けをされた技術教育が「音楽表現」による情操教育になる筈がない。
日本の音楽教育が「楽譜通り正確に美しく」を目的にしているから、吹奏楽の指導でも同じであるが、更に吹奏楽にはそういう方向に強く偏らせる幾つかの事情がある。
~略~
ともかく、音楽を演奏する目的が譜面通りに音を出す事であればなんの問題も無い事だが、作曲者がいろいろな表現手法を駆使して何事かを人の心にもたらすことを考えているとしたら、吹奏楽といえどもそういう目的に沿った演奏をしなければならない。前述のように西欧ではそういう種々の奏法を教えるのが音楽教育だから、たとえサウンドが本来の楽器の音と異なっても、吹奏楽によって作曲者の意図が表現されるべく演奏される。そこに音量や音色の変化が十分駆使できる能力が普段から育てられている。この能力が現在の日本のコンクール中心の教育体制から育つ筈はない。通常のコンクールはは何と言っても演技技術のレベルを競うものにならざるを得ないし、それ以外の教育が吹奏楽界には見当たらないからである。
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中略しちゃったとこですが。
吹奏楽だからの事情。まずは管楽器は奏法が弦や打楽器に比べて難しいこと。音を出すのが難しいので、縦を合わせることやピッチを合わせるだけで練習が終わってしまう。
また、音楽科の先生は専門が歌やピアノのため指導を辞退する方が多いとか。すると、全く音楽とは関係のない先生が担当し、それこそ合わせるだけで手一杯になってしまっている。
吹奏楽はもともと野外での演奏をしていたが、今では室内ホールで演奏するようになった。にもかかわらず、音楽的理解を変えずに演奏している。
そして逆に、音楽的にいい演奏に対してそうではないと言う指導者や審査員がまだいると言うこと。とてもバッハとは言えないけれど、素晴らしい音だし、楽しんで演奏しているからいっか、みたいな…。
郵政は音楽的な理解を持って演奏をする楽団です。
音楽的な演奏のためには演奏技術も必要です。
音楽へのひたむきさを忘れず練習していきましょう。