主な活動場所
創作を書いたり読んだりと思い思いの時をネット内でゆったりと過ごしています。

 「Another April Snow」前編 2008.3

2015-09-22





「こちらが・・・ご主人のチョ・ギョンホさんと・・・こちらの奥さんのソン・スジンさんが交通事故に遭われた現場の写真です」


ソウルから離れたサムチョクという小さな町の警察で、私たちは、交通事故に遭った現場の生々しい写真を見せられた。



私たち・・・昨日の事故がなければ知り合うはずのなかった二人。
私たち・・・夫に裏切られた女と妻に裏切られた男。



二人のパートナーが同乗した車が事故を起こしたのだ。二人の乗った車は対向車線を乗り越えて、前から来た車と正面衝突した・・・。相手の車は大破し、運転していた男は即死状態で亡くなった。若干26歳。初めての子供が生まれたばかりだと言う。




「まだ、お二人のどちらが運転していたかは、わかってないんです。二人とも車の外へ放り出されていましたからね・・・・。事情聴取をしたくても、お二人とも重体ではね」


若い警官が事故現場の写真を見せながら言った。


「あのう・・・先ほどから、何度か飲酒運転っておっしゃっていますが、うちのは酒を飲んで運転なんてしたりしません」

男は少し怒ったように眉間に皺を寄せて抗議した。

「どうでしょうか。奥さんにもアルコール反応は出ていますよ」

「・・・」

「まあ、これからの捜査でどちらが運転していたかはわかるでしょう・・・。さて!お二人には、車の中に残されていた所持品をお引き取り願いたいんです。こちらへどうぞ」




二人が警官についていくと、目の前のテーブルの上に、ボンと籠が置かれた。


「それぞれのお宅の品はわかるでしょう? お二人でよく見て分けてください」


警官は持ち場に戻っていった。
私は夫の財布や携帯を取り、男は妻の化粧ポウチやハンカチを取る。


コンドームがあった・・・。


私が黙って見つめていると、男は、それをサッと袋に入れて立ち上がった。


籠には、小さなデジカメだけが残った。私がそれを見ていると、男は私を見下ろすと、ぶっきら棒に聞いてきた。


「お宅の?」
「・・・かもしれません・・・」

私はそれを掴んで袋にしまった。



それがあの人との出会いだった。







【Another April Snow】1
主演:ペ・ヨンジュン/石田ゆり子








つい昨日まで、私も彼も自分たちのパートナーに裏切られていることに気づきもしなかった。
自分たちは平凡な幸せなカップルだと信じ切っていた・・・。でも、その裏で、相手は私たちを裏切り続けていた。


夫はその日、出張だと言った。
そして、あの彼の妻も仕事でこの地を訪れたのだと言う。彼はその事に固執するように、私を見つめて言った・・・。

「妻は仕事でこちらへ来たんです。そのことは忘れないでください」


私に釘を刺した。


でもね・・・。奥さんは、私の夫とアバンチュールを楽しむためにここへ来たのよ・・・。じゃなくちゃ、お酒なんか飲んで運転などしないわ・・・。

きっとあの人は、この事態をキレイ事に収めたいと思っているんだわ・・・そんな感じ・・・。


見栄? 
世間体?
それとも、私の夫のほうが彼の妻より15歳も年上で、中年で、見た目だって、彼より劣るから?
そんな冴えない男とアバンチュールを楽しんでいたのよ、あなたの奥さんは。







ユナは先日来、警察から持ち帰ったデジカメのことが気になっていた・・・。いったい、何が写っているのか・・・。

勇気を出して、スイッチを入れた。

写真は海岸線の風景が多かった。この写真の構図からして、夫のものではなさそうだ。 ユナは、デジカメのダイヤルをグルグルっと回した。突如、女のけたたましい笑い声が聞こえてきた。見ると、デジカメの画面に動画が映っている。


女の笑い声が響く中、夫が、ベッドから起き上がった・・・。


「撮るなよ」
「いいじゃない!(笑う)」
「よせよ・・・」

夫が寝ようとすると、

「ねえ、キスしようか!」
「やめろよ」
「いいじゃない!」

カメラの画面が天井を映した。ゆらゆらと揺れながら、天井を映し、衣ずれの音がして、「う~ん・・・」という声がする。再びカメラを女が持って、抱き合う二人を映し出す。

至近距離でキスする構図・・・。

それは、とても長い時間に思われた。二人の顔が離れて、女が笑ってレンズのほうを見て、スイッチを切った・・・。

ユナは心臓に楔を打ち込まれたような気がした。こんなことを・・・夫のギョンホがするなんて・・・。まさに浮気の現場だ。ほとんど裸の夫が女と戯れている・・・。

ユナはもう一度スイッチを入れて見ようとしたが、気分が悪くなって、繰り返し見ることができなかった。それでも、そのシーンは頭の中で繰り返されて、その夜は、てんてんとして眠りにつくことができなかった。







翌日、ユナは同じICUのベッドに寝ているあの女の顔を見にいった。しかし、彼女は無残にも顔に包帯を巻きつけて、間から見える顔も赤く腫れていた。ユナは、冷ややかな目をして睨みつけた。


「何ですか?」
「・・・」

男がやってきた。


「何かご用ですか?」
「・・・」


ユナは返事もせず、夫のベッドに戻った。男が夫のベッドにやってきた。そして、夫の顔を一瞥すると、ユナを睨んで帰っていった。男の夫を軽蔑しきった目つき・・・。ユナはこのスカした男に、あのデジカメを見せてやりたかった。

あなたの奥さん、見せてあげましょうか?

翌日、ユナはカメラを持って病院へ行ったが、男にそれを渡すことができなかった・・・。あの男も一緒に地獄へ陥れたかったのに、彼女にはそれができなかった。 あの映像に悩まされ、来る日も来る日も眠れない夜が続いたユナは、ほんの束の間、夫のベッドサイドで舟を漕いで寝るのが、彼女の日課となった。そんな映像を憎い女の夫だからと言って、ユナはとても見せる気にはなれなかった。








それから3日経った土曜の夜、ユナは逗留しているサムチョク・ホテルの前にあるカフェ・バーで、あの男を見かけた。


「ちょっとあなた・・・」


カウンターで一人、酒を飲んでいるその男に声をかけた。

「・・・なんでしょう?」


男がカウンターのイスを回して、ユナのほうを向いた。


「一人なら、一緒に飲まない?」


ユナは少し酔っているようだ。彼は眉間に皺を寄せた。


「・・・」
「ヨッパイの相手はしたくないって顔ね・・・」
「いや・・・あなたとは・・・」
「敵同士ってわけ?」
「・・・」

「ダメ?」
「あなたは・・・なんとも思わないんですか?」
「思うわよ・・・。とっても。でもね・・・」


ユナはそう言いながら、彼の隣に座った。


「あ、バーボンお代わりちょうだい!」


マスターに酒をオーダーする。


「お酒、好きなんですか?」
「うううん、別に・・・。でもねえ・・・。こっちへ来てからは私、毎晩、飲んだくれてるの・・・。あ、ありがとう」


ユナは目の前に出されたバーボンを飲もうとして、グラスを持ち上げて、中の液体をじっと見た。


「そうだわ! 乾杯しましょ!」
「・・・」
「う~ん・・・。とにかく乾杯」


自分のグラスを男のグラスに当てると、ユナはバーボンを勢いよく、飲み込んだ。


「・・・何か食べなくて、大丈夫?」


男が心配そうに、いや、呆れたように言った。


「ああ・・・忘れてた。そう、食べるね、食べる。そう・・・そういうことも、昔はしてたわね・・・ふ~ん」
「・・・」
「人間は食べる葦である・・・。ふん。私・・・今までどうやって生きてきたのかしらね・・・」


ユナはそういって、小皿に入っているピーナッツを口に入れた。


「これが、今晩の夕飯・・・」


ユナにはついこの前までの生活が頭に浮かばない。専業主婦のユナには、夫のためだけに日々の暮らしはあった・・・。毎日、夫の好む食事を作って食べさせて・・・それで? それが何だったと言うの? そんなに夫のために、時間を割いたって、あの人の頭の中には、違う女もいたのよ。

そして、今のユナの暮らしといったら、病院と安ホテルを行き来しているだけ。
食の楽しみも忘れた・・・。



「出ましょう」


男が睨みつけるようにユナを見た。


「でも、これ、今来たばかりよ。まだ、飲み終わってないわ」
「出ましょう。さあ」


彼はユナの腕を引っ張ってカウンターのイスから、ユナを引きずり落ろした。


「あ~ん、待って。マスター、ごちそうさま~」



男に引っ張られて出た外は、春めいてきたといっても、まだまだ気温は低く、風が冷たい。


「ああ~風が冷たい」
「寒い? 大丈夫ですか?」
「うん? 大丈夫。少し酔いを醒ましたほうがいいわね。あなたも迷惑よね、酔っ払いの相手は。 ああ~!(大きな声を立てる) ああ、なんか空気が冷たくて気持ちいいわ、シャキッとしてくる」

「そうお?」
「ええ。・・・それで?」
「・・・?」
「外へ出てどうするの?」
「何か食べましょう」
「食べるねえ・・・。ふ~ん・・・」
「一人じゃろくな物が食べられないから・・・。せっかく、ご一緒したんですから、一緒に食事しましょうよ」
「わかった。いいわよ」



ユナと彼は、まだ寒い夜のサムチョクの町を並んで歩く。


「ねえ・・・まずは名前を教えて。私は、ハン・ユナ」
「キム・インスです」
「そう、よろしく。ねえ、あなたっていくつ?」
「え?」
「私にずいぶん敬語で話すから」
「ふん。(笑う)35歳です」
「ああ・・・。そう・・・だと・・・うん・・・やっぱり、敬語か・・・」
「失礼ですけど・・・」
「私は40」
「ふ~ん・・・」
「ふ~んって何?」
「いや・・・若く見えますよ」
「そうお? でも、敬語だ・・・」
「でも、そういう仲でしょ?」
「まあね」
「それに・・・あの人が・・・かなり年上だったから」
「そっか・・・。あの人ね・・・。夫は私より7つ上。傷ついた?」
「・・・」
「あなたみたいにかっこいいダンナ様がいるのに、そんな年寄りと浮気してたなんて」
「・・・」
「私は・・・傷ついたわ。これでも彼よりは十分若いつもりだったから・・・。なのに、もっと若い女に手を出すなんて・・・」
「・・・」
「男の人は複雑なのかもね。女の私より・・・」

「さあ・・・。あ、あそこだけど、いいですか?」
「ええ」
「さしみがうまいらしいです」
「そう!」



二人は新鮮な海鮮が売り物の店へ入り、水槽の見える窓側のテーブルに着いた。


「さしみの盛り合わせだから、『山』でいいかな。いいですか?」
「ええ。ねえ、普通に話して。友達みたいに」
「・・・」
「友達は無理か・・・。でも、もっとクダけてくれる? じゃないと・・・なんか、息苦しいの。あなたに責められているみたいで・・・」
「・・・わかりました」
「・・・」
「わかった」(笑う)
「うん」





「人生って単純には生きられないものね」

ユナがさしみを突きながら、インスを見上げた。


「事故の前日まで、私は夫を信じていたの。あの人が外で働くなっていうから・・・うちのことだけに専念して・・・。おまえは最高の女房だって言うから、それを信じて・・・でも・・・これよ」
「・・・」
「なんか・・・全てがうそのように思えてくる・・・。私に向けてた笑顔って・・・あれって、何だったのかしら・・・」

「・・・お子さんは?」
「いないの。正確に言えば、彼の先妻さんには男の子がいるの・・・。それでもう子供はいらないって」
「・・・」
「略奪したわけじゃないのよ。夫は学生時代に一度結婚したものだから・・・。それで25で離婚して、私と知り合うまで長く一人でいたの」
「ふ~ん・・・」
「あなたは? 子供はいないの?」
「ええ、まだ」
「そう・・・」


インスは「まだ」と言った・・・。


「あなたの結婚生活はこれからも揺るぎがないのかしら・・・?」
「・・・。さあ・・・。まだと言ったのは、いつもの癖で・・・」

「復讐したい? 奥さんに?」
「う~ん・・・復讐ね。復讐ってなんだろうか・・・」
「私たちも浮気してみるといいかも・・・。やつらの気持ちがわかる」


そういって、ユナが笑った。


「・・・・」


インスは一瞬真剣な目をしたが、そのあと、俯いて寂しそうに笑った。


「あなたには無理ね、真面目だもん・・・」


ユナは酒を自分のおちょこに注ぐ。


「そうかな」
「そうよ。それに、相手が私じゃだめでしょ? もっと若い子じゃないと」


そういって、おちょこに入れたお酒をぐいっと飲み干した。


「そんな・・・。あなたは十分魅力的だと思うけど」
「お世辞。でも、ダメでしょ?」
「・・・酔ってる?」
「かもね・・・」


「復讐のために、あなたを抱くなんて・・・あなたに失礼だ」
「・・・」

「そんなこと、考えちゃいけないよ」
「そうね・・・ごめん、変なこと言ったわ」
「・・・」
「もう、忘れて。ね。忘れて」


ユナがインスに笑いかけると、インスはちょっと躊躇ってから笑った。

この人にはわからない・・・。あのデジカメで見た男と女の現場。それが、自分のパートナーだということがどれほど苦しいことか。でも、あえて、ユナはあの二人のことを話さなかった。それが何故なのか、自分でもよくわからないが、彼にそのことを告げる気にはなれなかった。

ユナには、インスの笑顔が自分への憐みのようにも見えた。40代になるまで専業主婦できた女が、仕えていた夫に裏切られる・・・。彼は、自分の妻のほうがまだ少し自由だっただけマシだと思っているのだろうか・・・。

インスは、先ほど笑ったユナの笑顔に少しまごついていた。彼女は自分に対して少しの恨み事も言わないで、笑顔を返してきたから・・・。彼の気持ちまでも包み込むような笑顔で・・・。ふと、インスは、今の自分の苦しみを一番理解できるのは、この人だけかもしれないと思った。
妻の携帯で目にした情事のメール・・・。その時のやりきれない絶望感、妻の裏切りに対する憤り。そんな、人には言い表せない感情を、ただ一言「苦しい」と言えば、全てをわかってもらえるような気がした。



「ねえ。楽しい話をしましょう! 少しは元気になりたいじゃない」
「いいよ」
「あなた、大学時代は何してたの? 野球の選手かなんか?」
「え? なんで、野球なの?」(笑う)
「この間、雪を丸めて壁打ちしてたでしょ? 見ちゃった。コントロールよかったもん」(笑う)
「見てたの? まあ、草野球はたまにやるけどね」
「肩が強そう」
「肩?(笑う)普段、重い荷物を持ち歩いているせいかな」
「仕事は何してるの? まさか行商か何か?」(笑う)
「ハハハ、舞台の照明係」
「へえ・・・舞台って演劇とかコンサートとか?」
「主にコンサート」
「へえ、そうなんだ・・・。ふ~ん・・・」


ユナはインスの仕事の話に頷いて、少し考えて静かに言った。


「夫はね・・・。画廊をしているの。最近は絵だけじゃなくて、写真にも凝ってて・・・」
「・・・」

「ごめん・・・。あなたの奥さんの仕事、知ってた・・・カメラマンだったわね」
「ああ・・・」
「今、ふとね・・・。ふと・・・。あの人たちの事を思った・・・。きっと、気が合ったんだろうなって」
「・・・」
「ごめんなさい・・・」
「・・・」



インスは、窓の外を見た。風が吹いて、水槽の上のテントをガタガタと揺らしている。

彼は黙って、手尺でまた酒を飲んだ。


「あなたはやさしそうに見えて、いい人なのか・・・悪魔なのか・・・わからないな」
「・・・悪魔だなんて・・・」
「一番辛いところに切り込むような事を言う・・・」
「・・・」
「でも、それが、もしかしたら、本当のことかもって僕が悩んでいることを知ってるみたいに」
「・・・」
「僕は、芸術に携わっているようで、技術屋だからね・・・。彼女の本質を理解できていなかったのかもしれない」
「そんなことはないわよ。そんなことはないわ・・・。それに、あなたはとてもいい人よ」
「・・・」
「私は、心が和むもの・・・」


「・・・出ようか」
「ええ・・・」



二人の距離は近くなって、そして、また遠ざかった。二人の間に流れる川は深くて当たり前だ。お互いに仲良くなって和気藹々になるということは難しいのかもしれない。
それでも、酔いながらフラフラ歩くユナを見捨てることができなくて、インスは、黙って肩を貸した。








それから、しばらくして、二人の病人はICUを出てそれぞれの病室に移った。ユナは殺風景な個室に何か飾ろうと思い、病院前の花屋へ行った。ちょうど手ごろな観葉植物があり、それを2つ買った・・・。



トントン!


「はい」


インスが妻スジンの病室のドアを開けた。


「こんにちは」
「どうも・・・」
「これ、よかったら・・・。ここの個室ってなんか殺風景でしょう。よかったら飾って」
「・・・」
「うちのと同じだけど・・・いい?」
「・・・。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ」

「あの・・・」
「なあに?」
「昼でも一緒に食いましょう」
「いいけど・・」
「じゃあ、後ほど」






二人は、病院の中庭のベンチに並んだ。



「食べる?」
「ありがとう」


ユナが購買会で買ってきた菓子パンと缶コーヒーを袋から出した。
二人は食べながら、まだ花をつけない桜の木を見ている。



「この間はすいません」
「何が?」
「いやあ・・・あなたに悪魔なんて言っちゃって・・・」
「いいのよ・・・。ホントに私の心には悪魔がいるから」
「・・・」
「人が嫌がることを言いたくなるの。自分だけ苦しいなんて嫌だから・・・ひどいやつでしょ?」
「・・・」
「あなたに嫌な思いをさせたわ・・・ごめんなさい」
「・・・」
「でも、あの時はそう感じたの」
「・・・それはその通りだったのかもしれない・・・」
「・・・」
「あなたに言われて、傷ついたけど・・・。後で考えたらね・・・そのほうがマシかなと思って」
「マシ?」
「・・・。体だけの関係だったなんて思いたくない・・・。あいつがオレを愛してなかったと考えるのも嫌だけど、ただ、体だけの付き合いで、男に走ったというのも嫌だ・・・。矛盾してるけど・・・」
「・・・そうね・・・。その辺が辛いよね・・・」


ユナは菓子パンをじっと見て、切なそうな目をした。


「夫は新しい恋をして・・・それを楽しんで・・・こんな結果になっちゃって・・・。でも、それって、まんざら、悪いことばかりじゃないでしょ? 人生を楽しんだのよ・・・彼なりに。でも、私はどうお? 妻だというだけで、その後始末をさせられて、こんなマズイ物ばかり食べさせられて・・・胸が苦しくて、お酒を飲んでも毎晩眠れないなんて・・・すごく不公平・・・」
「・・・」
「あの桜の木みたい・・・。私にはもう何にも残ってなくて、裸ん坊」

「・・・。いつか、オレたちも甦るのかなあ・・・桜みたいに」
「・・・」

「なんか誘ってかえって、悲しくさせちゃいましたね。すいません」
「うううん・・・大丈夫。(インスを見る)あなただって、同じ気持ちでしょう・・・。辛いのは一緒よ」
「・・・」

「なんか、パアってしたいわね。病人の世話ばかりじゃ辛くなっちゃう」
「そうだね・・・せっかく海の近くに来てるんだから、海でも見にいってみますか?」
「そうね。行ってみようか?」


二人は、少し気分転換をして笑い合った。









翌日、二人は介護を付き添い婦に頼んで、昼の海へ出かけた。



「ああ、気持ちいいわねえ・・・」
「ずいぶん、あったかくなったよね」
「うん・・・。波が穏やか・・・」
「ここへ来た時は雪が降ってたのに」
「知らない間に季節が変わろうとしているのね。部屋に閉じこもってちゃダメね。時に置いてきぼりにされちゃう」


ユナが笑って、砂浜にしゃがみ込んだ。インスも黙って彼女の隣に座った。


「こんなふうに穏やかな気分になったのって、久しぶり・・・」



この解放感・・・。そして、身も心もやさしく解すような安堵感・・・。


インスは隣に座っているユナの横顔を見た。髪が風に吹かれてやさしく揺れている。髪の間から見えるはっきりとした鼻筋が美しい。ユナがインスのほうを見て微笑んだ。ユナの髪が目にかかった・・・。インスは自然な手つきでユナの髪を直した・・・。ユナの見つめる目が・・・とてもやさしくて・・・愛おしいものに感じられる。


二人は黙ったまま、波を見つめた。


「春だねえ・・・」
「ホント・・・」


近くでは老人会の人々が砂浜を走る競争をしている。


「ねえ、私たちも走ってみようか?」
「走る?」
「おもしろそうよ! 行こうよ! 行ってみよう!」
「ええ?」
「私は行くわよ!」


ユナはジーンズのお尻の砂を叩き落としながら、老人会の徒競争に向かって走っていった。
インスはそんな威勢の良い彼女の姿をじっと見つめた。




ユナが老人たちに交わり、生き生きと走って、笑っている。老女の手を引いて笑い、ゴールするお爺さんを、手を叩いて労った。束の間の幸せが彼女を包んでいるようだ。

本当のあの人は、きっとあんな風に元気いっぱいの人なのだろう・・・。

遠くから手を振る彼女に応えて、インスも笑顔で手を振った。





「あ~あ、疲れた!」


彼女が戻ってきた。


「よく走ったね」
「うん。久しぶりに走ったわ」


彼女は幸せそうに微笑んだ。


「もう砂だらけよ。見てこれ!」
「ホントだ」



インスも笑いながら、ユナの砂を叩いた・・・。そんな仕草の中で、二人の目が合った。
インスはユナの手を引っ張り、自分の横に座らせた・・・。そして、じっと目を見つめて、やさしく口づけをした。それは、あまりにも当たり前のキスのようで・・・ユナも自然に受け入れた。二人の気持ちはもうとっくに結ばれているような不思議さえ感じて・・・。

キスをして顔を離すと、ゆっくりとユナが目を開けた。


「・・・」

「・・・ごめん・・・」

「うううん・・・」


ユナが首を振って俯くと、彼女の目から涙が落ちた。成り行きとはいえ、簡単にキスをしてしまったインスが我に返った。


「ごめん・・・」
「うううん・・・なんだろうねえ・・・。いい歳して泣いちゃって・・・。バカみたいね」
「・・・・」


ユナは涙を拭って笑った。


「・・・」
「なんだろ・・・。今ね、ふっと気分が楽になった・・・。なんでかな」
「・・・」
「ごめんね、泣いたりして」



ユナには本当はわかっていた・・・。
ここのところ感じていた焦燥感・・・。それは、もう人には愛されることはないかもしれないという感情だ。夫は自分より若い女と浮気に走った。いや、恋に落ちたのかもしれない。夫にとって、自分はもう魅力のない人間になってしまったのか。ユナは夫だけの世界に生きてきた。それなのに、その夫に去られたら、自分というものの価値さえ見い出せない。まだ40だというのに、この出口なしの感情・・・。そして、喪失感。


でも、今のキスは、ユナに生きる希望を与えてくれた。まだ、人生は終わっていないのだと教えてくれた。


インスがユナの肩を抱いた。


「人って、何でもなくても、涙が出ることがあるよ・・・僕もそんな時がある・・・」
「・・・」



ユナは、インスの方を向いて、彼の目をじっと見つめると、にっこりと笑った。






二人はホテルに戻ってきても、車から降りる気にはなれなかった。
海でのキスとあの安らぎは束の間のものなのか、それとも今まで探し求めてきたものなのか・・・。その感情を確かめたい。



「どうする・・・。もう少し走ろうか・・・」
「うん・・・」


インスは、また車を走らせた。

どこまで走ればいいのか・・・いつ、二人はこの車から降りたらいいのか・・・。わかっていることは、今は離れがたくて、もっと近くにこの人を感じたいということだ。


「行ってもいいわよ・・・」
「・・・」
「まだ、あなたといたいから」


そういって、ユナは車のドアに寄りかかり、窓の外を眺めた。インスもユナを見て、心を決めたように車を走らせる。二人を乗せた車は、海沿いのホテルへと着いた。





心を決めて、チェックインした二人だったが、今の状況はまさに不倫だ・・・。二人の間には、重い空気が流れている。


「帰る?」
「うううん・・・」



インスがユナを引き寄せ、抱きしめた。


「・・・」


今、お互いに抱擁している相手は、自分のパートナーの身代りなのだろうか・・・。それとも、遅れてきた恋の相手なのだろうか・・・。


ベッドの上に座り、お互いを見つめ合う。インスが勇気を出して、ユナにキスをした。ユナもそれに応えるように、キスをする。インスの手がユナのカットソーを持ち上げて脱がせ、ブラジャーに手をかけた。


「待って・・・」
「・・・。嫌ならやめるよ・・・」
「うううん、そうじゃないの・・・」
「・・・」

「私、もう若くないから・・・」
「・・・」
「奥さんに比べたら・・・若くないでしょ・・・あなたをがっかりさせるわ・・・」
「・・・」



インスは無言のまま、ユナをやさしくベッドに倒した。そして、子供でも撫でるように、ユナの髪を撫でた。



「君は君だよ・・・」
「・・・うん・・・」



ユナは自分からブラジャーを外して彼を見上げた。インスがにっこりと笑った。
二人の心は一つになった・・・。







翌朝、ホテルの自室で朝シャンを済ませて、バスルームから出てきたユナは、鏡に映った自分の姿をゆっくりと見渡した。昨日とどこが変わったというわけではいないが、心なしか表情も肌の輝きも違うように思える。

鏡に映った晴れやかな表情の自分は、不実な女なのだろうか。

ゴミ箱の中をビールの空き缶でいっぱいにしていた自分に比べ、心も体も、誠実に、そして、正しく機能し始めたように思えるのに・・・。

髪を乾かす手を止めて、ユナは窓の外を眺めた。これから病院へ行くのが楽しみになりそうだ。今までは意識のない夫に会うのが辛くて、何度行くのをやめようかと思ったかしれない。でも、今は、彼がいる。

フランス映画で見た未亡人は、愛人の体重の軽さに、亡き夫を思って、「なんて軽いの」と笑って泣いた。それに比べ、なんて自分は不実なのか・・・。夫のことなどあの瞬間、全く思い出しもしなかった。彼の腕の中で安らぎを感じて、久しぶりにゆっくり眠ることはできた。なんということか。

自分自身も夫と同じように、社会の規範から外れてしまった・・・。

でも・・・。

今、この時期を乗り切れることができるのであれば、私は人から後ろ指を指されてもいい・・・。不安と猜疑心に飲み込まれそうだった心が、今また穏やかになり、救われている。それだけでもいい・・・。それだけでも・・・。










「何を読んでいるんだい?」


インスが、ベッドの上で寝ころぶユナに覆いかぶさった。
今日はインスの部屋で二人は寛いでいる。病院を離れると、逗留するホテルのこの部屋が、二人のやすらぎの場だ。別段、抱き合わなくてもいい。二人で見つめ合えば、心が満たされていくのである。


「雑誌よ」


そういって、ユナは女性雑誌を見ている。


「ふ~ん」
「今日ね、病院の購買会で見つけたの。考えてみたら、こんな雑誌さえ読むことを忘れていたわ・・・」
「・・・」
「なあに?」
「ホントにそうだなと思って」
「あなたもなんか読んだら?」
「うん・・・。ねえ・・・」
「なあに?」


ユナがインスのほうを向いた。


「うん・・・君、ご主人の携帯、見た?」
「携帯?」
「うん・・・」
「・・・・」
「・・・・」
「あの事故で壊れちゃったからそのまま」
「そうか」
「あなたは見たの?」
「うん?少し・・・・」
「そう・・・」


たぶん・・・夫と彼の妻の情事のメールが入っていたのだろう・・・。


「ねえ、あの、デジカメになんか写ってた?」
「ああ、あれね。風景ね、海岸線とか」
「そうか・・・。あいつはカメラマンなのに、カメラを持っていなかったのが、考えたら、ちょっと変だなと思って・・・」
「そうねえ・・・。でも、わざと持ってこなかったのかもしれないし」
「・・・」

「なんか、二人の写真でも見たいの?」
「というわけでもないけど・・・」


インスは、携帯のメール同様に、何か浮気の証拠でも探したいのか・・・。


「いずれにせよ、カメラにはそういったものは残ってなかったわ」
「・・・」
「考えてみて。そんな証拠写真なんて残せるはずないじゃない」
「そうか」
「気になる?」
「・・・それならいいんだ・・・」
「・・・・奥さんのことが、気がかりなのね」
「そうじゃなくて・・・君が何か見ていたら、ショックかなと思って」
「・・・・」
「そうだろう?」
「そうね・・・」


きっとインスは携帯でショックなものを見つけたのだ。それで、私の気持ちを心配している。


「ねえ、インス。さっき買ったりんご、食べない?」
「ああ、そうだね。よし、オレが剥いてあげよう」


インスが起き上がって、りんごを取りにいく。


「まあ、それはどうも。上手に剥けるの?」
「え~え?  これから練習しなくちゃね」
「練習ね」(笑う)


ユナも笑って起き上がった。





インスがりんごと悪戦苦闘している。


「ねえ、代わろうか」
「いや、自分で剥いてみるよ」


インスが不器用そうにりんごを剥く。ユナはその手つきを楽しそうに見つめている。


「色が変わらないうちに食べさせてね」
「僕もそう願いたいけど・・・」(笑う)


ユナは皿に落ちた厚く剥けたりんごの皮を拾って、口に入れた。


「うん、おいしい! このりんご、おいしいね」
「なんだあ・・・」


インスががっかりした顔をした。


「いいわよ、あなたは剥いてて。私はこのジューシーなほどに、ぶ厚いやつを食べてるから」


ユナが笑った。そして、ひとかけら、インスの口に入れた。


「どうお?」
「おいしい。ああ、もうやめた。バカみたいだ」
「ふふん。(笑う)貸して! 剥いてあげるわ」


ユナがインスの続きを剥き、インスはぶ厚いのりんごの皮を口に入れて笑った。


「ねえ、今度水族館へ行ってみようか」
「それもいいわねえ」
「うまそうな魚がいっぱい泳いでいるらしいから」
「ふふふ、全く」


二人が笑っていると、部屋のチャイムが鳴った。


「誰だろう・・・今ごろ」


インスは立ち上がってドアのところへ行き、「はい!」と返事をした。彼の妻の父親だった。
二人は顔を見あわせて、インスは急いでユナをバスルームに匿った。
インスがドアを開け、父親を招いた。


父親はザッと部屋の中を見回して、「どうだ、様子は」と聞いた。インスは「夕飯はもう召し上がりましたか?僕はまだなので、よかったら外へ出ましょう」と、父親を部屋から誘い出した。ドアの閉まる音はしたが、どのタイミングで出ていったらよいのか、ユナが迷っていると、またドアの開く音がして、ユナは一人緊張した。バスルームのドアが開いて、インスが覗き込んだ。



「ああ、びっくりした・・・」
「ごめん。大丈夫?」
「うん・・・大丈夫よ。お父さん、待ってるんでしょう? 早く行ってあげて」
「・・・」
「さあ・・・」
「うん・・・」


インスがじっとユナを見つめている。


「私も出るわ」


ユナがバスルームを出ようとすると、インスがユナを抱きしめた。


「ごめんよ・・・君を隠したりして・・・」
「・・・」


二人だけでいると、何も悪いことなどしていない気がする。気が合って、一緒に笑い合うだけだ。時に、悲しみや辛さが襲ってくると、それを相手がやさしく抱き止めてくれる・・・。何も悪いことなどしていないじゃないか。

でも・・・。

一歩、外に出てみれば、二人は不倫の関係だ。

インスの抱擁はやさしくて、そこにはちっとも薄汚い感情なんてないように思えるのに、人から見えれば、すっかり不倫に溺れて、関係を続ける男と女だ。

あの人の奥さんに責められる立場になった・・・。
私が生死を彷徨っている間に人の亭主を寝取るなんてと・・・。

ユナはそんなことを考えたが、それでもインスへの感情を抑えることができなかった。夫が彼の妻と不倫をしていたことに最初は腹を立て、まるでこの世の終わりのように、毎日苦しい思いで過ごしてきたというのに、なんと人は、自分に都合よく考えるものなのか。自分たちの関係だけは、まるで純愛のように思えてくる・・・。

最初は苦しさから逃れたくて、安らぎがほしくて、インスを愛した・・・。彼は現実から逃避するための手段だったかもしれない。でも・・・今は彼が心の多くを占めている。逃避というより、彼への愛で、今、自分は生かされているような気がする。


インスはどう思っているのだろう・・・。

私は、まだただの借り物なのだろうか・・・。











夜になって、ユナの部屋のチャイムが鳴った。

ユナはもう寝る用意をしていて、風呂に入り、パジャマに着替えていた。チャイムの後に、トントン!とノックする音がした。その音で誰が訪ねてきたか、わかった。


「どうしたの?」
「ただいま」


ユナが開けたかすかな隙間からインスの笑顔が覗いた。


「・・・」
「入れて」

「酔ってるでしょ。帰って寝たら?」
「・・・」


ユナがドアを閉めようとすると、インスはドアに足を挟んでいて、ドアが閉まらない。彼は力いっぱいドアを引っ張って開け、中へ入ってきた。


「お父さんは帰ったの?」
「うん・・・バス停まで送って、バスに乗るのを見送ってきた・・・」
「それで、酔って帰ってきたの? あなた、酔っ払って車を運転したの?」
「いや・・・。帰ってから、そこで飲んでた」
「・・・」


「君に会わずに部屋に戻りたいと思って帰ってきて・・・。そして飲んだくれて・・・結局、君を訪ねた」


インスが酔った目をして、ユナを見た。


「ふん」


インスが自嘲するように笑った。


「なんでこんなに逢いたくなるのかな・・・。なんで君のドアを素通りして自分の部屋に入れないのか・・・」


インスがユナを睨んで近づいてくる・・・。


「なんでだろう・・・」
「酔ってるわ。帰りなさい。また明日話しましょう」
「君は年上で、妻を寝取った、憎い男の妻でもあるはずなのに・・・。そして、オレをとんでもない不倫の道に陥れている張本人なのに・・・」
「・・・インス・・・」

「親父から隠さなくちゃいけない関係なのに・・・」
「・・・インス」

「今まで、人に後ろ指を指されるようなことなんて、してこなかったのに・・・」
「・・・インス?」

「なんでなんだろう・・・」


インスがユナに迫って、ユナは押されるようにベッドに座り込んだ。インスが圧し掛かるようにして、ユナを押し倒した。



「なんで?」


ユナの顔を睨みつけている。


「やめて」


ユナが逆らおうとすると、インスの手が彼女の両手を掴んで頭の上で押さえつけた。


「痛いわ」
「どうして・・・」


インスの体重がユナの上に圧し掛かる。


「重いわ・・・」
「なんで、恋しいんだ、君が!」
「・・・」
「なんでこんなに君が恋しいんだ!」
「・・・」


インスの唇がユナの唇に重なった。

「・・・お酒臭いわ・・・」
「・・・」
「・・・こんなの嫌よ・・・」
「・・・」


インスの目が切なそうに翳った。彼は、押さえつけていたユナの手を放し、起き上がった。


「インス・・・」

「・・・悪かった」


インスがユナを見つめて、寂しそうに玄関へ向かう。


「インス・・・待って。インス・・・行かないで」


ユナは起き上がってインスの後を追う。 玄関に向かうインスの背中に抱きついた。


「行かないで。ここにいてちょうだい」


インスは振り返って、ユナの目を見た。


「お願い、ここにいて・・・」



インスは酔っていたせいもあったが、ユナと目が合った瞬間、なぜか自分自身の心の均衡を保つことができなくなった。ユナに抱きつくと、崩れるように座り込んだ。

ユナはそんなインスが胸に顔を埋めると、彼への愛おしさがあふれてきて、まるで、子供を抱くように、その胸にきつく抱かずにはいられなかった。








翌朝、ホテルの自室のベッドで目覚めたユナは、胸に抱いたインスの髪をやさしく撫でた。

愛しい彼・・・。
なんてかわいい人・・・。

ユナは彼の髪を撫でていたが、そろそろ起きようとして、インスの体からそっと体を離そうとすると、インスの声がした。


「今、何時?」
「うん? 6時半」
「もう少し寝よう・・・」
「寝てて・・・私は・・・」
「君も一緒に、もう少し寝よう・・・」
「・・・わかったわ・・・」


インスがもう一度ユナを抱き直し、ユナの胸で深呼吸をした。ユナもインスも何も身につけていなかったので、インスの呼吸がユナの胸にふわっとかかり、彼女の胸はチクチクと痛んだ。忘れていた恋の痛み・・・。ユナは、よりインスの呼吸を肌に感じるように、抱きしめた。

この息づかい。
この温もり・・・。

彼から離れるなんて・・・・できない。









午後になって、病室で、ユナが夫の手の指の爪を切っていると、付き添いのおばさんがやってきた。


「こんにちは」
「こんにちは。どうかされました? なんか晴れやかですね」

「そうかしら? 今ね、爪を切ってたの」
「そうですか」
「結構速く伸びるのよね」
「意識はなくても、爪は伸びるし、髭も伸びる。床ずれもするし・・・生きてるって難儀ですよね」
「・・・」
「あ、ごめんなさい。旦那さんには助かってほしいですよ」
「わかってます。・・・髪もこんなに白くなっちゃって・・・髪質も痩せちゃったわ・・・。前は、髪が太くて黒いのが自慢だったのに・・・」


ユナが夫の顔をじっと見入っている。


「さあ、奥さん、選手交代。代わりますよ」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと出てきますね」

「奥さんも一日中、病室に詰めているだけじゃあ、身が持ちませんからね。少しリフレッシュされるといいですよ」
「そうね・・・ありがとう。じゃあ、行ってきますね。6時前には戻れると思うけれど・・・。何かあったら携帯に電話してくださいね」
「わかりました」


ユナは病室を出て、約束のバス停へ向かった。

バス停のベンチの横に立って、ユナはインスの車が来るのを待っている。腕時計で時間を確認すると、ユナは手持ち無沙汰のように、コートに両手を突っ込んで、周りを見回した。


インスの車がやってきた。


「お待たせ。待った? ごめんよ。さあ、乗って」
「どうしたの? 病人さんに何かあったの?」
「いや。おばさんが遅れてきたものだから」
「そうお」


「水族館でいいよね?」
「ええ」
「ずっと立って待ってたの?」
「なんで?」
「座ってればいいのに。疲れちゃうだろ?」

「でも、座ってたら、あなたの車から見えにくいでしょ?」
「ふん」
「どうしたの? 何、笑ってるの?」
「君って親切だよね」
「そうお?」
「いつも気遣いがある」
「そうかしら」
「うん」

「やあだあ。何にも出ないわよお」
「ふん。(笑う)いいよ、別に」


「でもね」
「・・・」
「僕は、君が座っていても、遠くからでも、すぐに君がわかるよ。見間違えない。すぐに見つけるよ」
「・・・うん・・・」


二人はちょっと見つめ合って、恥ずかしそうに笑った。







続く・・・・。