文化とは、御稽古事とは何か?

2015-05-03
はい、皆さん。

本日は少々舌鋒鋭くしていきます。

文化とは、暮らしを豊かにする原動力です。

おしまい。

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喜びとか感動とか、金額がつけにくいモノ。

でも、この感覚感性が耐久消費財等、手で触れて目で見える製品を
生み出していきます。

現在の世相は『量産』出来る体制と『原材料価格』『販売原価』等が
最初からさらされている状態です。

行き過ぎた、そして途中の歴史的な過程をとっぱらった情報の短絡化で
利幅なんか無い、爆安に価値を見出す時代です。

安ければ安いほど、でも、それでいて品質と価値を求める。

全く持って矛盾です。

そもそも(以下略)

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さて、文化と言うのは感動する事、感動を呼び起こす事、感度させる事。
嬉しい気持ち、こう言った心の活動を アート(芸術の方)に昇華させて
テクニック(技術)で具現化する。その感動と言うかうれしい事を個人で
あれば仕事で、会社や国であれば経済活動で切り盛りをします。


例えば日本の浮世絵
北斎やら歌麿やらの絵師が描く世界に感動した好事家の為、製版技術や
色彩技術、流通、紙の普及、印刷(版画ですから)の高度化等が発生。
また、その歴史が日本の一大文化を作り上げました。

近年だとサッカーとか
サッカー選手に感動する人達。スポーツ施設を作り、イベントではパンフレット
や販促用の品々の発注があり、タレントがイベントに出演。
テーマソングができて、CDが売れ、会場ではポップコーンとビールが。


最近だと漫画とイロイロコラボレーション企画と言いますが、実はそう言うのは
昔からあって、製品単体では無く、生活や文化に根差したパッケージだったと
私は感じています。だから、腰の強い文化や長く続くイベントは単品では無く、
複雑に絡み合ってます。でも、最初にあるのは感動したいと言う思い。




経済と文化は人が健やかに生きる為の両輪と私は考えているのです。

そう言う分けですから、習い事は『楽しい』『感動する』『うれしい』が
無ければダメです。
将来にそれでお金を稼ぐ資格の為とか、そう言うのもあるでしょう。

ですが、習い事の多くが『文化の先生』を目指すものでは無いと思うのです。

そりゃ、鍛える為、己を見つめなおす、とか言うのもアリですが、それは
どれも、『自分の目標に達する喜びの為の手段』です。皆と一緒に練習する
事が楽しい、と言うのもOK



こう言った感覚は老いも若きも、男女関係なくいつも持っていたいものだ
と思います。



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ですが、ダメなのは

文化・その手段を否定する事。

己の覚悟の弱さや軸のぶれっぷりを文化や手段のせいにする事。
嬉しかった自分や鍛えて明日を見出せた自分や環境を否定してどうする?

と私は強く思うのです。

厳しく練習して目標値に達したらうれしいでしょう。その嬉しさと過程で
身に着けたメンタルの部分が大事なのです。


そして、太極拳は文化的側面ともう一つ、自分を鍛えまくる武術としての
一面があります。

鍛えまくった人の拳は美しい。

『外似処女内似金剛』

そこまで鍛える余裕が無くとも、専用の拳法着と靴をそろえ、友人達と
ともに自分達と楽しく練習。
人によって、伝統武術を使って身に着けようとする事、水準はまちまちで
しょう。
私はそれで構わないと思います。ただ、相手を壊す練習をしたいのであれば
格闘技術の教室の方が断然効率も良いし現実的でしょう。
若しかしたら太極拳は時代に即していないかもしれません。
あくまでも、もしかしたらですが。

それから、凄く練習に関わった分けでは無い人が『大家』になるのも良くない。
やはり、歴史があるぶん、根っこと繋がっていなければなりません。

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老若男女、病気の人も壮健な人も鍛える事が出来て、長い歴史を持つこの
技術はそれぞれの練習者がそれぞれに気づく 『身体を動かす楽しさ』が
あります。

また、皆で作ってきた練習環境にもやはり価値があります。逆に、武術の
側面があるのならば『文化を護るお手本』としての矜持をほんの少しでも
持つべきだと考えるのです。


文化と言うのは自然に根差す、根源的なチカラの発露であるのでしょう。
身体を動かす事、美し自然に息をのむ事、リズムを取る事等で誰もが
何かを感じると思います。

太極拳の場合は陰陽・自然に根差した技術。鍛える事で健康を増進し、
様々な感性感覚を研ぎ澄ませる技術。

日本の自然に根差した歴史の紬方と少し似ているので、得心しやすいかも
しれないですね。


陳氏太極拳 塚本