野間玄琢 さんて知ってますか? ①
2022-05-25
この方1590年(天正18年)生まれ、父親は尾張の織田信包に仕える武士。
若くして父親の友人、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に医学を学ぶ。
1638年ごろ、京都の愛宕郡東紫竹大門小字三筑に33石余りの領地を拝領。
1645年(正保2年)京都にて没。
野間玄琢のお墓は鷹峯光悦寺から東へ、源光庵を超えて常照寺の東隣 「雲月」に隣接して今も残っています。
以後 明治維新で東京に引っ越すまで、野間家は現在の玄琢の地に居住していたようです。
大宮学区には「玄琢町」「玄琢北東町」という町内があります。
※なぜ京都に領地を貰ったのか? 経緯はまた後日とします。
※東紫竹はどこ? 昭和10年の地図にはいまの一ノ井町あたりに
「東紫竹」という地名が見えます。
※大門三筑はどこ? 今の紫竹大門町となにか関係があるのかも?
※明治維新後 33石の領地はどうなった? また後日とします。
最後までお読みいただき有難うございました。
若くして父親の友人、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に医学を学ぶ。
1638年ごろ、京都の愛宕郡東紫竹大門小字三筑に33石余りの領地を拝領。
1645年(正保2年)京都にて没。
野間玄琢のお墓は鷹峯光悦寺から東へ、源光庵を超えて常照寺の東隣 「雲月」に隣接して今も残っています。
以後 明治維新で東京に引っ越すまで、野間家は現在の玄琢の地に居住していたようです。
大宮学区には「玄琢町」「玄琢北東町」という町内があります。
※なぜ京都に領地を貰ったのか? 経緯はまた後日とします。
※東紫竹はどこ? 昭和10年の地図にはいまの一ノ井町あたりに
「東紫竹」という地名が見えます。
※大門三筑はどこ? 今の紫竹大門町となにか関係があるのかも?
※明治維新後 33石の領地はどうなった? また後日とします。
最後までお読みいただき有難うございました。