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横浜市鶴見区社会福祉協議会の
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 詩篇24

2024-11-25

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ダビデの歌とあります。
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」(1節)
地上世界にあるもの、そこに住むもの、つまり我々を含めて地にあるものは神に所属しています。所有権は神にあるのです。
「主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。」(2節)
海での法則や川での法則、つまり水の循環機序を創られたのも神です。
「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。」(3節)
ここで、詩篇作者は問かけをします。主の山とはエルサレムがあるシオンの山を指しています。聖所は神殿のことです。神に近づける者がいるのだろうかという問いかけです。
「手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。」(4節)
聖者と呼ばれる人のことでしょう。
「このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。」(5節)
聖者であれば、神の基準に達しているので、祝福されます。神様から義人として認められるということです。イエス・キリストとそれに属する人なのでしょう。
「これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。」(6節)
神を慕う気持ちが強いので、イスラエルの神の御顔を求めているのです。神の身近にいたいということです。
「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。」(7節)
エルサレムは城壁で囲まれています。ですから入城するには門を通らなければなりません。門が開かれることを擬人化して頭をあげると歌います。門扉は栄光の王が現れるまでは開かれないのかもしれません。栄光の王が来ないなら永遠に閉ざされたままなのでしょう。
「栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。」(8節)
栄光の王の正体は強く勇ましい主です。この主とは神のことです。詩篇93:1に「主は王となり、威光の衣をまとわれます。」とあるのです。
9節で7節と同じ言葉が繰り返されます。栄光の王の入城がとても重要な意味があるということです。神が地上に来られることを指しているようです。
「この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。」(10節)
万軍の主という言葉は聖書に何度も記されています。「ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。」(サムエル第二6:18)とあるように万軍をお持ちなのはヤハウェ神です。霊者である天のみ使いの数でも何億といるようです。一人の霊者だけでアッシリアの軍勢185000人を倒したという記録もあります。(列王第二19:35)
ですから、神こそ万軍を持つ栄光の王です。