主な活動場所
横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 詩篇13

2024-11-11

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
詩篇の詩は特徴としてダビデの歌が多いのですが、対比している詩になっているものがあります。第13篇もそのような構成になっています。
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。」(1,2節)
いつまでですかと4回も繰り返して神に尋ねています。自分のことを忘れていないだろうか。御顔を隠しつづけるのだろうか。自分の魂が痛み心がいつも悲しみを持ち続けるのだろうか。敵が私の上に尊崇されつづけるのだろうか。こうしたことが実際にダビデに起きたのかもしれません。一時的にそうした状況になることがあっても、耐えられるかもしれません。でも、そのようなことが永続していればたまりません。神様にいつまで耐えればいいのか聞きたくなるでしょう。
「わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、わたしの敵は『わたしは敵に勝った』と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって/喜ぶでしょう。」(3,4節)
詩篇作者は神に嘆願しています。自分の状況をしっかり神に見てもらい、自分にわかるように答えて欲しいと願います。自分の敵が勝利して、自分の地位が剥奪され、死ぬことになってしまうことに恐れを感じているようです。
しかし、ここから一転して希望の言葉を述べることをしています。
「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。」(5,6節)
どのような苦境に陥っても、神は慈しみをもって行動することを信じています。そして神からの救いに喜ぶことを表明します。なぜなら、神に熱心に祈ったことによって、自分と神との関係が築かれているので、必ず神の豊かな救済を得られると確信しているからです。
苦しい状況は誰にも起こります。その状況を乗り越えることによって人は成長することができます。ですから苦難はあっても、やがて解決するという希望があればその状況を甘受することもできるのです。問題が解決されれば、詩篇作者のようにヤハウェ神に向かって喜びの詩を歌うようになるでしょう。
以前のブログでも書きましたが、神の見方と人の見方は違うことがあります。苦難は必ずやってきます。そのときにその状況を大変だどうしようと考えるのではなく、試練と思い乗り越えた先に成長があると考えてみましょう。それはもしかしたら、神の見方に近づくのかもしれません。農家の人も天候によって作物の出来不出来が毎年ありますが、工夫をして収穫にこぎつけます。それで、我々も農家の人に学ぶことが必要かもしれません。