詩篇11
2024-11-07
美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「わたしは主に寄り頼む。なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか、『鳥のように山にのがれよ。見よ、悪しき者は、暗やみで、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか』と。」(1~3節)
当時においてダビデ王に意見する者がいたのでしょう。鳥のねぐらがある山に早く逃れるように言います。悪人は誰にも見られないようにして正直な者を射ようとします。自分たちの悪が正直者によって暴かれるのを恐れるためです。正直者がいなくなれば自分たちが安堵できるのです。そのため法的な基盤すらも壊そうとします。正義が葬られれば、義なる人は何もできなくなるのです。
「主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。」(4節)
ヤハウェ神は天の宮殿の御座におられます。人の子らをくまなく調べられます。
「主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。」(5節)
神の目から見て正しい者と悪しき者がいることは事実です。神の御心は乱暴者を憎まれるということです。「力が正義」という思想がありますが、「勝てば官軍」のように力でねじ伏せて勝てば、勝った者が正しいということでしょうか。正義と不正は誰が決めるのでしょうか?人間の知恵で善悪を決められるのでしょうか?善悪は神に決めてもらうほうが幸せかもしれません。かつて、人間夫婦が自分で決めたほうが幸せになれると錯覚しましたが、過去、現在の状況を冷静に判断したいですね。(創世記3:1~15)
「主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである」(6節)
悪人に対して神は処罰をします。炭火は火によって滅ぼすことを象徴しています。硫黄は火力を補うものです。かつてソドムという都市が不義の罪で滅ぼされましたが、神は火と硫黄を降らせました。(創世記19:24)
「主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。」(7節)
正義を決めるのは神様です。神は義を愛されるからです。誰でも正義を望み、不正を嫌悪するでしょう。神様も同じなのです。ただし神の正義は真の正義であって、不義が入り込む余地はありません。イエス・キリストは「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)と言われました。詩篇の聖句を引用したのでしょう。神様と直接顔を合わせていられることは、大変名誉なことだと思います。我々も国王や天皇に謁見できるのは名誉なことでしょう。神様にお会いできるのは、それ以上のこととなるでしょう。今はほとんどの人が、そのような状態には至っていないように思います。