詩篇8
2024-11-04
美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」(1,2節)
ダビデは歌詞を作り、聖歌隊の指揮者によって歌わせます。神の御名であるヤハウェがいかに尊いか、それは天での栄光に表れていることを知っています。それで乳児でさえも神を誉め称えると言っています。敵に備えて砦も設けてくださったと理解しています。
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(3,4節)
宇宙にある月や星に対して現在のような知識はなかったかもしれませんが、月の満ち欠けや星の動きで季節を知ることができたのでしょう。このような天体を作られた神に対して畏敬の念を感じたのでしょう。それに対して人間は小さくとるに足りない者と感じ、神が人間に対する愛情を過分のご親切と思ったのでしょう。
「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。」(5,6節)
ダビデは神より人間が威力の点で劣っていることを認めていました。でもこの人間に神は栄と誉を与えてくれたのです。そして地球上のすべての産物を管理することを求めておられます。もちろん全てを管理しているのは神様ですが、地球上のものについては人間に任せているのです。現在、人間はその使命を果たせていないようです。人間による自然破壊が急速に全地に及んでいます。
「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」(9節)
1節の繰り返しをしています。それだけ神の御名が全地にあまねく広められ、尊ばれることをダビデは望んでいました。
以前のブログでも話しましたが、旧約聖書を編纂したのはユダヤ人で、ユダヤ教を信じて神の教えを守っています。彼らは神の御名であるיהוה「ヤハウェ」を知っていますが、口にしません。モーセの「神の御名をみだりに唱えるな」という戒律を守っているからです。ただ、みだりにというのは気儘に使うなということで、一切使うなとは書いていません。かつて日本の文語訳聖書には「エホバ」という名を使用していました。今の日本語訳の聖書はほとんどが「主」としています。
神様のお名前は神聖なので、いたずらに用いるべきではないと思います。ですが、ダビデは神の名について、全地に広がり尊ばれることを願っていました。そうであれば、現代のクリスチャンも、敬意を払って「ヤハウェ」と呼びかけても良いのではないでしょうか?