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横浜市鶴見区社会福祉協議会の
団体交流室

 詩篇7

2024-11-01

美しい詩を読むと心が豊かになります。本当はメロディーがあったはずです。
ダビデは自分の行いについて神に委ねる歌を書きました。
「もしわたしの手によこしまな事があるならば、もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。」(3~5節)
ダビデは自分の行動について神の判断を聴きたいと願いました。邪悪な事を考えたりしないだろうか。友達に悪いことをしなかっただろうか。敵に対しても理由なく略奪しなかっただろうか。そして、もしそのようなことがあるなら、敵に捉えられて命が塵になることを願うのです。多分、ダビデは神から見て正しい事を行っていたいと決めていたのでしょう。ですから、自分の行動に対して神の裁きは間違わないことを理解していました。
「どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。」(9節)
神から見て悪しき者の悪が断たれることを願っています。そして神から見て正しい者が堅く立ち続けることも願います。なぜなら、神は義なる方であり、外面ではなく心と思いを調べられるからです。
「わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。」(10節)
神はダビデを守る盾のような存在です。敵の矢を防いでくれるのです。神からの救いは心の正直な者に対して行われます。神は心を覗くことができる方です。神の前でごまかしたりすることはできません。
「もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。」(12,13節)
人間は不完全な生き物です。ですから間違いや失敗をします。それでも正しい事を願い求める生き物でもあります。だから悔い改めることが求められています。刑法でも故意の罪と過失の罪では量刑が違います。悔い改めないと厳しい神の裁きに遭うのでしょう。
「彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。」(15節)
いわゆる「墓穴を掘る」ということです。
「わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。」(16節)
この訳では「主」となっていますが、原語では「ヤハウェ」でしょう。ヘブライ語では「在りて在る」「成して成る」という意味になります。名は体を表すといいますが、神様の名前は確かにあるのです。モーセの十戒で、「神の御名をみだりに唱えてはならない」とあるので、クリスチャンも「主」と唱えるようです。誰でも、自分の名前を大切にしていると思います。神様もそうだと思います。みだりに唱えなければ良いのであって禁止することはないと思います。ダビデも「主の名を褒め歌い」ました。