真理76
2024-07-16
皆様、真理に精通しましょう。真理が貴方の未来を左右するからです。
「マタイ伝」の次は「マルコ伝」です。マルコは1世紀当時のクリスチャンで、ペテロに愛されていました。12弟子の一人ではありませんが、ペテロから話を聞いて文章にしたのでしょう。ペテロ第1の5章13節に「わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。」とあるので自分の子供のように感じていたのかもしれません。また使徒行伝15章39,40節に「バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。」とあるように伝道旅行に参加したようです。
直接の目撃証人でないかもしれませんが、マルコは1世紀のペテロやパウロやバルナバを通して真理の言葉を書き残したのでしょう。イエス・キリストの足跡を知るのに比較的短い時間で読むことができると思います。
その内容は、他の福音書と違う部分もあって比較して読むと面白いかもしれません。例えばマルコ3章4~6節に「人々にむかって、『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』と言われた。彼らは黙っていた。 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。」とあります。イエスは人々の無感覚さを怒り嘆いています。当時の律法では安息日は聖なる日であって、神が創造の業を7日目に休まれたことを記念するものでした。安息日を守らないと死罪だったのです。ですからイエスが命を救う行動を安息日にしたのは、そのような律法の精神を忘れて、形だけ行動だけで判断しようとする律法学者、(ここではパリサイ人として書かれている)に対しての怒りと嘆きなのです。
他の福音書では事実だけを書いているのに対して、マルコはイエスの感情を表現しています。これはその場にいたペテロから聞かされたためと思われます。
さらにマルコ8章36,37節には「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」とあります。全世界の富を得ても、死んだらそれで終わりです。富を得るために多くの犠牲を払うのは馬鹿げたことだと言っているのです。誰も命を取り戻すことはできません。それで、イエスは自分の完全な命を人々の救いのために与えることができることを解っていました。そうです、アダムが犯した罪により死が全人類に及びました。この罪を消し去ることができるのは、完全な命をもったイエス・キリストだけです。
今は、こうしてイエスは我々の罪を贖ってくださったことが解りました。そのことを日々感謝してイエス・キリストの精神を持って生きてゆきましょう。
イエスの最期を見た百卒長は「まことに、この人は神の子であった」と言っています。