真理74
2024-07-07
皆様、真理に精通しましょう。真理が貴方の未来を左右するからです。
「ゼカリヤ書」の次は「マラキ書」です。旧約聖書最後の書で預言者のマラキが記録しました。多分西暦前5世紀のエルサレムで預言したようです。すでに神殿も再建されていたようですが、神への信仰において不十分な状態があったようです。それはマラキが祭司に向けて語っている内容から分かります。マラキ1章で「ヤハウェの名を軽んじている」と諫めています。祭司はいいがかりだから「どのようにしてヤハウェの食卓を汚しているか」と反論します。神は犠牲の動物に目の見えないものや足なえのものを差し出すことによって汚していると伝えます。多分、エルサレムの住民も神への犠牲の動物はどうせ焼かれるのだから、目が見えなくても足なえでも良いだろうと考えたのでしょう。そしてその動物を捧げる祭司も、焼いてしまうのだからそれでも良いかとしてしまったのでしょう。この行為は神を侮辱する行為でした。試しに総督に差し出す動物をそのような目や足の不自由なものにしてみてはどうか?と尋ねます。もちろん総督はそのようなものを快く思いません。ましてや神に差し出すのであれば一番良いものを選ぶべきでした。律法にもそのように神に差し出す品は最良のものでなければならなかったのです。
次にマラキは3章1節で「見よ、わたしは自分の使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整えなければならない。また、あなた方の求める、まことの主がその神殿に突然に来る。」と預言し、これは1世紀にバプテスマを施すヨハネと主であるイエス・キリストのことです。
なぜなら、マタイ伝11章7節から14節でイエス・キリストはバプテスマを施すヨハネのことについて「彼が,『来ることになっているエリヤ』です。」と言っているからです。そしてバプテスマを施すヨハネはマタイ伝3章10,11節で「私は、あなた方が悔い改めたので水でバプテスマを施します。しかし、私の後から来る方は私より強く、私はその方のサンダルを脱がせるにも値しません。その方は聖なる力と火でバプテスマを施します。」と言ってマラキ書での主の前に道を整える使者に過ぎないことを認めていました。
このように、マラキ書には1世紀の事柄についてあらかじめ預言として聖書に記されてきました。それで、1世紀にバプテスマを施すヨハネが現れると、マラキが預言した使者と人々は理解できたでしょう。そして主であるイエス・キリストは、聖なる力と火でバプテスマを施すことが、神からの救いの手立てであることを理解したでしょう。
現代は、こうして聖書を簡単に見聞きすることができていますが、1世紀当時、聖書はシナゴーグと呼ばれる会堂に巻物として置かれていました。祭司は聖書に接する機会も多かったでしょうが、一般の住民はそうではありません。会堂に行って祭司の言葉を覚えることで神の言葉を知るしかなかったでしょう。
その点で、現代は本当に恵まれた時代です。なんの苦労もなく神の言葉を調べることができるのですから。この時代を感謝して調べてゆこうと思います。