真理37
2024-04-02
皆様、真理に精通しましょう。真理が貴方の未来を左右するからです。
真理については尽きない話題があるのですが、これまで「聖書」の歴史を調べてきました。「創世記」の次は「出エジプト記」です。これは中学の世界史でも学ぶと思いますが、エジプトの奴隷状態であったイスラエル民族が、神によって奇跡的に脱出するという歴史です。映画にもなっているので、記憶に残っていることでしょう。世界史でも学ぶ事柄ですから確かにイスラエル民族がエジプトからパレスチナに帰還した事実があったのです。そこに神の奇跡があったかどうかは「聖書」には記されていても、歴史の教科書には書かれていません。
エジプト王国が強大な国であり沢山の建造物が残っていることは間違いのない事実です。そしてその労働をイスラエル人に割り当てたこともあったでしょう。「出エジプト記」にはイスラエル人の神からの救いを求める叫びを聞いたと書かれています。そして神はイスラエル人を救うためにモーセを遣わします。この時にモーセは神の名前を聞こうとします。すると神は「私は有る」という方であると言います。つまり「I am」ということで、ヘブライ語ではエホシュアといわれていますが、日本語ではエホバと書かれています。発音がどこまで原語に近いかわかりませんが、ヘブライ語の記述では子音の発音表記がわからないのでしかたのないことです。重要なのは神にはお名前があるということです。
我々も名前を持っています。親につけられた名前ですが、それには名づけた理由もあるでしょう。その人と呼ばれるより、~~さんと呼ばれたほうが気持ちがよいのではありませんか?神も同じではないでしょうか?「神様」とか「主様」と呼ばれるより「エホバ神様」とか「エホシュア様」と呼んだほうが喜ばれるかもしれません。
モーセは出エジプトを果たした後に、神から十戒を授かることになります。これが律法の始まりです。この中に神の名をみだりに唱えてはならないという戒律があり、それによって神の名前を避けてしまったようです。教えはみだりに唱えるなということで、一切使うなとは言っていません。
その他の戒律は当たり前のような事柄です。「Iam」という神以外ものを神にしてはいけないとか、偶像を作るなとか、父と母を敬えとか、殺すなとか、隣人の家をむさぼるなとかです。でも、このような当たり前のことが守れないのが人間の弱さなんですね。最初の人間夫婦も簡単な善悪の木の実を食べるなということさえ守れなかったのです。そして、このような戒律は誰も完全に守ることはできません。つまり戒律は人間が不完全であることの証明書のようなものです。誰もが不完全ですから、神と同じ領域で思考できるものは、いないということです。唯一その完全性を証明したのがイエス・キリストでした。神の領域から人間界に下って全ての律法を完全に遂行しました。そして、人間が犯した過ちの対価としての完全な命を捧げることで、人間の原罪を完全に消し去ったのです。
イエス・キリストなくして、我々は生きることも希望を持つこともできないのです。